徳川家康の健康法 MFS通信 第20160911号
2016.10.18
我が家における征夷大将軍の妻に前回のニュースレターを見せたら「さて」が多いと言われた山田です。また戦国時代ネタで恐縮ですが、またやります。
さてさて、前回は秀吉でしたが今回は徳川家康に焦点を合わします。
徳川家康は言わずと知れた、天下をとり江戸時代の礎を築いた人物です。
この方は天下をとった時、すでに62歳くらい、亡くなったのが73歳くらいだったと言われます。この時代ではかなりの長命です。
遺伝的に長命なわけではなく、家康の場合は健康管理、危機管理によって長命を獲得した人物として数多くの資料が残っています。
彼は自身で薬草を調合し服用していたと言われますし、食べ物に関しては徹底して、季節外れのものや冷たいものを口にしなかったそうです。
現代の栄養学でも旬のものは栄養価が高いと知られています。そして、真夏でも熱いうどんを食していたそうで、熱を通したものを食べることにより食中毒を防ぎ、胃腸の保護を考えていたのです。
熱を通していないものを食べてお腹が痛くなった場合「悪いもの食べたかな?」と思うことは、私自身も経験的に理解できるのですが、当時の家康はすでに細菌やウィルスの概念を感覚的に持っていた節があります。
それはおそらく日本人では初だと思います。家康は「習慣的に外から帰って来たら石鹸で手を洗っていた」ことがわかっているそうです。しかも、石鹸は当時ヨーロッパから輸入されていた高級品だったそうですが、戦場に赴く兵に配給していたというから驚きです。
運動も健康管理において重要なファクターです。家康は鷹狩りを趣味とし、剣術、弓術、馬術と武芸百般でした。これらは武士として当たり前のようですが、彼は自ら調合した薬を服用してる一方で「鷹狩りこそ一番の健康法だ。なまじっか薬を飲むより、ずっと良い」と武士のたしなみというよりは健康法として取り入れていたのでしょう。
最後に危機管理に関しては、
極め付けにこんなエピソードがあります。
三人はかねて家康の馬術の噂を聞いてはいるが、その妙技を見た事はない。幸いに目下に見える丸木橋を、家康がどのようにして渡るかと、部下の多勢と息をこらして眺めている。
ところが、ゆるゆると馬を歩ませて橋に近よった家康は、しばらく橋をながめ上下を見廻していたが、やがて静かに馬を下りて馬廻りの士に何か命じ、自分は従士の背に負われて橋を渡った。馬は舎人四・五人ついて二十間ほども川を上手にまわり牽渡した。丘の上で眺めていた三将の軍兵どもは、
「家康卿は馬の名人と承ったが、わずかの小橋を渡りかねて、人に負われて渡られしよ」とどよみ笑った。
堀、長谷川、丹羽の人々はこれを制して、
「家康卿がかほどの馬の上手とは知らなんだ。馬の巧者は危きことはせぬものなり、とりわけ大切の陣前なれば身をかばわれて、あぶなき事をさけられしよ。さすが近代の名人との名に恥じず」と感じ入ったという。』
(「弓馬と名将」斉藤直芳より)
こういった健康管理・危機管理を徹底し天下をとり、長命を得た家康は約265年続いた江戸時代の礎を築いたのです。
兎も角、少なくとも健康の維持には
・口に入れるものは、よく火を通す
(メディカルフードサービスの商品は全て中心温度をしっかり確認して衛生的な商品を提供しております。これが言いたかった!)
・外から帰って来たら手洗いうがい
(メディカルフードサービスの自社工場では当然、手洗いマスクを徹底しています。これも言いたかった!)
・馬に乗っていて危ない場所があったら下馬する
(メディカルフードサービスでは恐れ入りますが馬のお取り扱いがございません。)
お客様サービスセンター 山田 康生